羊をいただきました

先週息子と2人で早来へ行き、うちの羊を屠畜してきました。
今回は今年2月に産まれた雄でした。
この10ヶ月間、飼っている羊のなかでは一番懐いていて、やんちゃな子でした。生活を共にしていた分、愛情を注いでいた分、やはり連れていくことに葛藤がありました。
銃で動物を屠るクセに自分の可愛がった羊に対しては喰うことを躊躇する。全く人間とは余りにも我が儘な生き物だとつくづく厭な思いにもなりました…
今回、以前こちらにも投稿しましたが、「生きる」という営みは、自分が生活する地域内で自らもその地域内の物質を構成する原子の循環の1つの歯車になるということなんだと改めて感じました。羊を食べるときは感謝という言葉すら軽く思えて、何とも表現しがたい(申し訳なく、でも本能として美味いと感じた)感情が出ました。
この羊は自分であり、家族であり、うちの畑の雑草であり、葡萄であり、うちの畑の土であり、畑に降り注ぐ風土陽水であり、この土地の空気であり…。感情や気持ちでだけでの上っ面な繋がりではなくて、身体そのものを構成する物質的な繋がりを自らに起こった事象として認識しました。絵本「鹿よ おれの兄弟よ」も正にそんなことを表現していたなと思いました。
一方、普段から鹿や羆、鶏を捌いて喰っておきながら、今回は屠畜場に捌くことを依頼した自分に対し、情けなさと申し訳無さが日に日に募ってきています。対して動画で観たモンゴル遊牧民やベドウィン達の家畜への考えは愛情なんて言葉は改めて言う必要が無い程の愛があると感じました。だからこそ自分も自らが屠り、喰うことをしたいと思いました。文章を書いていても感情が高ぶってて、何言ってるか分からなくなってるところもありますが…..。なので、来年は自分で最後までやります。四つ足は基本全て同じですしね。
今回の子は、あらゆる意味でも私たち家族の糧になってもらうよう有り難く綺麗に頂戴したいと思います。
羊は喰うためと糞が欲しいためという2点で飼っています。彼らは自らの血肉を私たち家族へ捧げてくれるとともに葡萄や梅、栗、野菜を育てる源も供給してくれています。自然と共に生活を送る(持続可能という言葉は最近軽くなっている気がしますのであまり使いたくない 笑)。そのための有畜複合農業が出来つつあると思っています。

羊の命は自分等が生きている「この世」には無くなっても自分の中で精神的にも肉体的にも生き続けていると思います。生物学的には「生きる」と言うことは単にエネルギー源を分解し、発熱するという活動で、みんな普段は意識せずに「生きる」とはそういうことみたいになってるけど、実際「生死」についてこういう生活してると本当に根っこのところまで考えることがあり、そんな生物学的なことだけじゃないなと思うわけです。

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